風と星と鳥

アイドル(嵐・ジャニーズ)やアイドルでないもの(OLDCODEX・鈴木達央)の観測と短歌

わたしにとってのアイドル短歌の話ージャニーズ短歌WEB歌集 J31Gateの企画を通して

f:id:sz_q3:20201230210808j:plain

2020年は、自分の詩作というよりは、人の歌を読んだり、編んだり、短歌とは何かということを考えることが多い年だったように思います。

 

Twitter上で催していたアイドル短歌の企画「ジャニーズ短歌WEB歌集 J31Gate(Twitternote」を11月で休止することは、個人的な理由から夏頃には決めていました。

企画の動機は、同じテーマで詠まれた色々な詠み手の方によるアイドル短歌を並べて見てみたい、というなんとなくのもので始めたことでしたが、次第に、企画を見た方がそれぞれの形で短歌やアイドル短歌にふれるきっかけとなれたら、今まで知らなかったアイドルについて興味を持つきっかけとなったり短歌を通して鑑賞・コミュニケーションし合う場であれたら、という思いも生まれ第15回までを開催してきました。

 

月に一度の定期で、歌集の紙面を作成すること、にこだわっていたのは、アイドル短歌の歴史のほんの一部分でもいいから、記録を残したかったからでした。

アイドル短歌は、わたしの認識が正しければ、Twitterにおいてはハッシュタグ #アイドル短歌 を付けてツイートされる短歌を中心とした、誰が管理しているわけでもない自由な場であると捉えています。

だからこそ「アイドル短歌とは何か」ということも非常にあいまいで、流動的で、人によって捉え方が異なるものであると感じます。

ツイートはその特性から日々生まれては流れて見えなくなってしまうし、なにか定点的に眺める場が欲しかった。

J31Gate」が見つめ、残せたものは多くはないですが、この年の瀬に、企画の管理者としてではなく個人的に、自分の考えていたことのいくつかを書き留めておこうというのがこの記事です。

 

「アイドル短歌」とは何か

ということを企画を始める前からずっと考え続けていました。

わたしはそれを定義する立場にはなかったのですが、便宜上、企画を行なうにあたって二度、アイドル短歌を説明する文章を書きました。

 

アイドル短歌はTwitterや他SNS等で詠まれている、アイドルに関する短歌で、その多くはファンによって詠まれているようです。

‪●Twitter等における #アイドル短歌 タグはジャニーズファンの方の使用が多く見受けられますが、ジャニーズ以外にも広く使用されています。

‪●とらえ方は詠み手によってさまざまのようで、ファン目線の短歌・アイドルが語っている風の短歌・そのどちらでもないものなど、いずれも「アイドル短歌」として発表されています。

‪▲note 企画概要の記事(当企画について)より

 

アイドル短歌とは何かということを定義するのは難しいと思いますが、当企画では「詠み手によってアイドル短歌(ジャニーズ短歌)であるとして詠まれた短歌」はすべて受付をしています。

時に恋人のようにアイドルへの想いを描くファン視点の短歌も、アイドルの心情を想像することで想いを深めるアイドル視点の短歌も、そのどちらにも限定しない短歌、イメージ短歌のようなものから生まれる詩的な化学反応もすべて、アイドル短歌の一表現として認められてほしい、詠み手の方の目に映ったアイドル像(ジャニーズ像)を大切にしたいという想いがあります。

▲note 20201月の記事(J31Gateにとってのアイドル短歌とGateの先の展望)より

 

どちらも共通しているのは「詠み手がアイドル短歌だと思って詠んだもの」はすべてアイドル短歌であるという考え方です。いまもその点において考えは変わっていません。

 

いまは、一言で言うならばアイドル短歌とは「アイドルを想って詠まれた短歌」のことであると思っています。

短歌内の語り手がファンであるかアイドルであるかや、具体的なエピソードが詠み込まれているか否かなどは問わず、詠み手がアイドルを想うなかで生まれた短歌。

しかしそもそも「アイドル」というものすら、人によって定義・捉え方・相対し方が変わるものであるように思います。

 

アイドルとはなにか

「アイドル」についてわたしは、「みた人のなかに結ばれた像」がアイドルであると考えています。

ステージ上に立つタレントは確かにそこに存在するけれど、それを眼差している誰かの中に像を結んで初めてそこにアイドルが生まれる、というような言い表すのが難しいのですが。「タレントとファンが交差した地点に生じるもの」でも近いかもしれません。必要なのは観測者の存在です。

アイドルという職業が生み出すものは、歌手やアーティストにとっての「歌唱」「楽曲」「作品」のように明確に形式があるものではなく、外見・内面・パフォーマンス含め意識的にしろ無意識的にしろファンに見せるすがたすべてが総合的にどんな「人間」どんな「存在」としてファンのなかに映り、像を結ぶかというものだと思っています。

「アイドル」は英語の「Idol(偶像・聖像・崇拝対象)」を語源としていますが、単純に「アイドルを和訳すると偶像という意味」ではないと考えています。(しいて言えばステージに立つタレント自体は「観測者のなかにあるアイドルを投影する偶像」と言えるかもしれない。)しかしながら語源からみても、アイドルには必ず観測者が必要であり、それは例えば彼らの言葉で表せば「ファンの皆さんあっての(僕たち)」ということでもあると思います。

わたしの「アイドル」はわたしだけのものであり、あなたの「アイドル」はあなただけのものである、という考え方です。

そこに立っているタレントが同じ人間なこともあり、誰かのアイドルと共通することや似通うことがあるのは不思議ではないとしても、わたしのアイドルはわたしの中だけに生きているもの、と思っています。

 

「主体」からみたアイドル短歌

企画で扱っていたような、主にTwitterでみられる、ハッシュタグ#アイドル短歌を用いて短歌を発表する界隈に於いては、アイドル短歌には次のようなものがあると思っています。

❶ファン視点の短歌

❷アイドル視点の短歌(アイドルが語っている風の短歌)

❸どちらでもない短歌(❶でも❷でもないか不明、第三者や神視点、イメージ短歌のようなもの等)

その中でも❶かつ「主体=作者」である短歌、自分自身の目で見た「わたし(ファン)と○○くん(アイドル)」の世界を自分自身の言葉でそのまま描写するような短歌が、一番わかりやすく、初心者でもとっつきやすく、初めて0からアイドル短歌を詠もうと思ったら自然にこのかたちになるかもしれません。

ここで話題にする「アイドル短歌」はファン文化から発生したものであり作者がアイドル自身ではないということが前提なので、❷の短歌の主体は基本的に作者となります。❶の短歌よりは想像力が必要になりますが、アイドルから見た景色を想像することはけして不自然な発想・表現方法ではないと思います。

「❷アイドル視点の短歌」を詠んだとき、そこには多かれ少なかれ作者の「○○くん像」が表れます。アイドルが観測者なくして生まれない無二の存在であるのと同じように、アイドル短歌もその作者からしか生まれ得ない無二の作品になります。

「❶ファン目線の短歌」でも必ずしも短歌の主体=作者であるとは限りませんし、「❸どちらでもない短歌」は何がその短歌の主体となっているかにもよりますが、たとえ具体的なエピソードを含まない、一見アイドル詠には見えない普通の短歌でも、「アイドル短歌」として発表されている以上、そこには何らかの「アイドル観」が含まれていると想定した読みが出来、「アイドル短歌」となると言えると思います。

 

❶❷❸という分け方は便宜上、アイドル短歌を表層的にみてもわかる「アイドル短歌っていうのはファン目線の短歌とアイドル目線の短歌があるんだな(でもどっちでもないものもあるな)」という程度の考えで分けたものに過ぎないのですが、もっと単純に考えれば「主体=作者である短歌/それ以外」ということになるのかもしれません。そして「それ以外」の短歌にも多かれ少なかれ「観測者とアイドル」の関係性の気配、「観測者のアイドル観」が匂い立つ。そんな「私性」を読み解くこともアイドル短歌の「鑑賞」なのではないかと思ったりします。

 

アイドル短歌と「私性」の話

「ファン」「観測者」「作者」「主体」、色々な言葉で表してきましたが、これらはすべてアイドル短歌の「わたし」「私性」を考えるキーワードでした。「アイドル」の捉え方次第で「アイドル短歌」の解釈も変わるのでこれは個人的な考察なのですが。

短歌の「私性」についてわたしは今のところ「その短歌のなかに立ち上る一人の人格の気配」……のように考えています。それは短歌の中に一人称として出てくる登場人物であるかもしれないし、作者のことである場合もあればそうでない場合もあるし、短歌の中には出てこない観測者の気配であったりもする。「❶ファン目線の短歌」が必ずしも短歌の主体=作者であるとは限らないと前述しましたが、短歌の中にあらわれる「私性」についても同様に、私性(その短歌から感じとられる人格)=作者本人の人格であるとは限らない、と考えています。それは❶❷❸問わずです。

アイドル短歌における「わたし」は、アイドルを見つめるたった一人の自分であるときもあれば、自分を映す鏡としてのアイドルの中に隠れているものでもあり、アイドルを構成する要素の一部としてアイドルの中に溶け込んでいるものでもあり、短歌に私性を生み出す表現者であるときもあるというように、アイドルと「わたし」がどのような関係であるか・どのように観測しているか、「アイドル」をどのような存在と解釈しているか、短歌に対してどのように私性を匂い立たせるか等によって揺れ動きます。さらに読み手にとっては短歌を鑑賞する際にそこに限りなく「わたし」に近いものを見出すということもあるかもしれません。「アイドル短歌っていうのはファン目線の短歌とアイドル目線の短歌があるんだな(でもどっちでもないものもあるな)」という感覚はそんな「アイドル」と「わたし」の間の揺らぎ、「短歌」における「私性」の在り方の違いから生まれているのかもしれないということを考えていました。

 

アイドル短歌は虚構なのか

という題で論考を書こうと思ったことがあるのですがそこまでちゃんとした形にならなかったものの、以下は断片です。

ここまで述べたわたしの個人的な「アイドル」「アイドル短歌」の定義に従うと、短歌内に詠み込まれたエピソード等が事実であろうと架空のものであろうと、観測者に見えている像がアイドルで、詠み手に見えた景の描写がアイドル短歌なので、「虚構かどうか」の議論の俎上にも乗らないというのが自分の中の結論です。詭弁と言われればそれまでですが。

「短歌と虚構」問題は2014年の短歌研究新人賞の件に端を発したものと理解していますが、関連する時評すべてに目を通せているわけではないことを前置きに少し話をします。

短歌内に詠み込む事柄は、それが事実であるか否かに関わらず、人間の関心を強く惹くような(=センセーショナルな)事柄については注意が必要であると考えています。

具体的に挙げれば、生死や病、性・恋愛に関わること、特にアイドルにおいては退所やスキャンダル等です。

2014年の短歌研究新人賞が議論となったのも、扱ったものが「実父の死(という虚構)」であったために起こった部分が大きいかと思います。

人を容易に惹き付けることができる題材を扱った短歌は否応なしに人の目を引きます。

わたしはむしろアイドル短歌においては「事実」を扱うことこそが恐ろしいのではとずっと考えていて、

わたしはここまでずっと「アイドルとは観測者の中に生まれた存在に過ぎない」という話をしていますが、その「アイドル」を作り出している「(アイドルを生業とする)タレント」が「(わたしたち観測者と同じ)生身の人間」であることは承知しています。これが(誤解を恐れずに言ってしまえば)やっかいで、その「生身の人間」が「アイドル」そのものであるとして、扱われることが多いとこの社会では感じます。「生身の人間」は現世に生きている現実の存在で、どの観測者からも見ることができる「事実」です。

短歌にタレントの名前を添えること、顔写真を添えること(※これはそもそも肖像権の侵害にあたる場合があります)、現実のエピソードを引用すること、「事実」は簡単に他人の興味を引き、共感を生み、たまたまアイドルを生業としている「生身の人間」と一個人の心の中に生まれたに過ぎない「アイドル」との境界を曖昧にします。

これらの行為を一律に禁止するべきという話ではなく、「アイドル短歌」を詠むことによって生ずる危険性を、理解した上で詩作したい、というのが前述した「事実を扱うことこそが恐ろしい」の意図するところです。

 

アイドルと短歌の親和性

色々とごちゃごちゃ書きましたが、確かだと思っているのは「アイドル短歌とはアイドルを想って詠まれた短歌である」ということだけです。

それは、「アイドルの見方は人それぞれの多様なものである」「アイドル短歌は人によって色んな詠み方や解釈があっていい」という主張ではなく、むしろ「わたしのアイドルはわたしだけのもの」「わたしのアイドル短歌を詠めるのはわたしだけ」という気持ちの強いものです。

わたしは短歌自体についても「57577のリズムで読める短い詩」であれば短歌であると思っていて、内容について「短歌とはこういうもの」という思想は持ち合わせていないのですが、その「57577」を何よりも大切にしています。

わたしにとっての短歌とはその時の詠みたい感情、響き、景色、思い出、記録などをいかに最上の57577に落とし込めるかの作業で、自分との戦いのようでもあり短歌という友人との語らいのようでもあるものです。

この命が終わるその瞬間まで、短歌がそばにいてくれるから生きていけるのだとさえ思う、そんな存在です。

わたしは短歌の結社にも所属せず、投稿もほとんど行わず、他の歌人の方との交流も最小限で、ほぼ自分のために短歌を詠んでいます。

自分のそのとき表現したいものを納得いくよう短歌のかたちにできたらそれで十分。

アイドルに対しても、外野がなんと言おうと自分の目で見つめてきたアイドルのことを自分の中で咀嚼して自分なりの結晶を結ぶことだけが大切で、

そんな価値観だったからアイドル短歌を詠もうと思ったのかもしれません。

J31Gateが目的としていた、アイドルに興味を持つきっかけとなったり 短歌を通して鑑賞・コミュニケーションし合う場になり得るという点でも、ふたつは親和性があるように思いますが、わたし個人としてはそこは重視していなかったし、

そもそもほとんど主義主張を明らかにしてこなかった企画でもあったので、参加者・読者の人々がどんな気持ちでアイドル・アイドル短歌に向き合っていたかというのは、結局それぞれに委ねられるしかなく、アイドル短歌を定点的に眺める場を目指してはいたもののその分析をするでもなく中途半端に終わってしまった気もします。

 

アイドル短歌を「読む・詠む」から「考える・論じる」へ

論理が矛盾していたり日本語がおかしい部分があったかもしれませんが、大目に見ていただけるとたすかります。

この記事で書いたことは、わたし個人の考え・解釈であり、J31Gateという企画ではこれまで主張してこなかったことで、もちろん企画の参加者の方の考えとも関係はありません。

アイドル短歌は、J31Gateの開催とはおそらく関係なく詠み手の方も増え、ハッシュタグの流れも速く、とても盛り上がりを感じますが、日々流れ去っていくだけのものにするのは非常にもったいないと感じます。

今回記事にした考えはわたし個人の考えでしかありませんが、アイドル短歌に触れる人々の少しずつでも「読む・詠む」から個々に、アイドル短歌とは?ということや、良いアイドル短歌とは?ということなどについて「考え、論ずる」ことでも盛り上がっていけるような、そんな世界になっていってほしいなと思っています。